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第32話(最終話)
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「紀美ちゃん……」
玲子さんは呆然として妻を見ています。
「旅行に行ったんじゃなかったの……」
「寝室でFMラジオを聞いていたの。盗聴器って玩具みたいなものかと思っていたら、部屋の声まで随分良く聞こえるのね。びっくりしたわ」
妻は電話線を壁面ジャックから抜くと、ユニット型盗聴器を取り外し、テーブルの上に置きました。玲子さんは表情を引きつらせて、目を背けています。
「玲子さんがどうして俺の心理を言い当てることが出来るのか、不思議だった」
私は静かな声で話します。
「だが良く考えると、俺が見ていないときの紀美子の行動について指摘されることで、俺の紀美子に対する不安や疑いが増幅されているのだと気づいた。特に、
紀美子が日曜から実家に帰ったというのは嘘で、本当は竹井と過ごしていると聞かされたのが堪えた。それまでは紀美子を信じていたが、あれ以来一気に紀美子
への疑いが深まり、最後には猜疑心の塊になってしまった」
「しかし、紀美子が実際に実家にいることを俺が確認できていないと知っていれば、俺の不安をかきたてるのはいとも簡単だ。盗聴という手段に今まで気づかな
かったのは俺の不覚だった」
「今さら否定しても無駄のようね……」
玲子さんは苦笑いを浮かべながらそういいました。
「紀美ちゃん、東山さんは一度はあなたを捨てて、私と一緒になるといったのよ。それでも今までどおりやっていけるというの?」
「今までどおりは無理です」
妻は私のほうをちらりと見るとはっきりした声で言いました。私は妻に対する申し訳なさで顔を伏せました。
「なぜなら、私も汚れてしまったから……」
玲子さんはいぶかしげな顔を妻に向けました。
「私も主人を捨てて、竹井さんの女になるといったのです。それがたとえ強制されてのことだろうが、訳がわからなくなって口走ったことだろうが、主人にとっ
ては許すことが出来ないことです」
「なら、あなたたちはこれからどうするの?」
「もう一度、最初から夫婦をやり直します。もちろん主人がいいと言ってくれたらですが……」
妻は今度はまっすぐ私を見ました。私も妻の視線を受け止め、頷きました。
「私はお邪魔みたいね」
玲子さんは静かな声でそう言うと、立ち上がりました。
「玲子……」
私は思わず声をかけました。玲子さんは「何? あなた」と微かに笑います。
「これから……玲子さんはどうするんだ?」
「私のほうこそ今までどおりは無理だわ。近々このマンションからは引っ越します」
「遠藤と一緒に暮らすのか?」
「まさか……」
玲子さんは寂しげに笑いました。
「母子三人で静かに暮らすわよ。もうあなたたちには付きまとわないから心配しないで。それと、ビデオや写真は責任を持って処分するわ」
玲子さんは次に妻の方を見て尋ねます。
「レイプの件は表沙汰にするつもり?」
「いいえ」
妻は首を振りました。
「私にも隙がありました。訴えることはありません」
「あの2人からろくな慰謝料は取れないわ。私が代わりに払います」
「玲子さん……」
妻が声をかけました。
「何?」
「バレーボール、もうやらないんですか?」
「……無理よ、それは」
玲子さんは首を振ります。
「折角良いコンビだったのに……」
「そうね、悪くなかったわ。それだけは残念ね」
玲子さんは静かに笑いながら玄関に向かいます。
「それじゃあ、さようなら。紀美ちゃん、ご主人を大切にね」
玲子さんはそういって深々と頭を下げ、帰っていきました。
2週間後、玲子さん一家は行き先も告げずに引っ越していきました。それからしばらくたって玲子さんから妻へ200万円の現金が送られてきました。私と妻
はそれぞれの身に何が起こったのかを追求しあうことはありませんでした。私は妻が私をまったく裏切らなかったとは思っていませんし、妻もそうだと思いま
す。
しかし、真実とは常に相対的なものです。映画化もされた『藪の中』という小説がありますが、私は妻の語る真実を信じることにしました。
時々私は玲子さんの情熱的な目と迫力に満ちた身体、そして最後に見た寂しげな顔を思い出します。もちろんそれを妻に話すことは決してありませんでした。
(了)
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