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32.獣人化(2)
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祥子は必死でもがくが、啓治は信じられないような怪力を発揮して祥子をしっ
かりと押さえつける。啓治の口が大きく開き、真っ赤な舌と白い歯がむき出しになる。窓から差し込んだ満月の光に照らされ、啓治の長く伸びた体毛が青白く
光っている様は、まるで恐怖映画に登場する狼男を見るようだ。
「………!!」
奇怪な変貌を遂げた啓治を見て名状しがたい恐怖に駆られた祥子は、渾身の力を振り絞って啓治の身体をはねのける。
「フウッ」
床の上に投げ飛ばされた啓治は一瞬たじろいだが、すぐに態勢を立て直すと獣のようなうなり声を上げて祥子に掴み掛かってくる。目の色は既に正気のもので
はない。
「嫌っ!」
パジャマの上衣の裾が啓治の鋭い爪で切り裂かれ、ズタズタになる。祥子はすんでのところで身をかわし、廊下に通じるドアの近くまで転がるようにたどり着
くと、全速力で階段を駆け下りる。
(………なにか、棒のようなものがあれば………)
転げ落ちるように階段下の玄関に到着した祥子は必死で辺りを見回す。ポーチの壁に啓治のゴルフバッグが立てかけられたままになっているのを見つけると、
祥子はぱっと表情を輝かせた。バッグからアイアンを一本取り出し、上段に構える。
啓治が猫類のような身の軽さで勢い良く階段を駆け下りてくる。そこを祥子は正面から迎え撃ち、裂帛の気合いと共に啓治の頭上にアイアンを一閃させた。
「オオオウッ」
全国高校剣道選手権女子の部2年連続優勝を誇る祥子の面打ちが見事に決まり、啓治は頭を押さえて昏倒した。
「……ふうっ」
祥子は荒い溜息をつくと、床に倒れ伏している啓治におそるおそる近寄っていく。
微妙に急所を外したため命に別状はないようだが、啓治は額に大きな瘤をつくって完全に失神していた。そそけ立つように見えていた啓治の体毛は心なしか色
あせ、顔からは獣のような形相も薄らいでいくように見える。
(いったい何が起こっているの………)
パトリシアとの理解しがたい惑乱の一夜、そして今しがた啓治に起こった奇怪な変化、何か信じられないようなことが祥子の周囲で起こっている。祥子は理性
と論理で必死に謎を解こうとするが、連夜の異常な出来事にさすがの祥子もショックを受け、考えをまとめることが出来ない。
おまけに今は失神している啓治も、一見正常な状態に戻りつつあるように見えるが、いつまた奇怪な変身が生じ、祥子に襲いかかるかもわからないのだ。
(もうここにはいられないわ………)
まさに変身ともいうべき啓治の異状は一時的なものだろうか? もしそうでなければこのままここにとどまるのは危険だ。いったん身を移し、夜が明けたら
戻って啓治の状態を見よう。それまでにガルシアと連絡を取るのも良いかも知れない。
(でも、どこへ………)
祥子は洗面所に行くと破れたパジャマを脱ぎ捨て、鏡に自分の姿を映した。
パンティ一枚の半裸の祥子に目立った傷はないが、啓治から逃げ回った時にあちこちをぶつけたためか、肌のところどころが薄く痣のようになっている。長い
黒髪は乱れ、顔色は青ざめ、ひどい状態である。
祥子は顔を洗い、堅く水を絞ったタオルで身体の汗と埃を拭い落とす。出来ればシャワーを浴びたいところだが、状況が状況なだけに贅沢は言えない。ポーチ
から化粧品を取りだし、ファウンデーションを軽く塗り、口紅をひく。
祥子は下着をつけ、涼子の部屋に行くとワードローブから青いスーツを選ぶ。
(ちょっと借りるわね、お姉さん)
祥子はついでにパジャマ代わりになりそうな白いスウェットの上下と、下着の替えを紙袋に詰め込む。啓治が持ってきてくれたサマードレスは、このまま持っ
ていこうか少し祥子は迷ったが、結局丁寧に畳んで涼子のベッドの上に置いた。
祥子はスーツに着替えて髪をとかし、紙袋を持つ。パトリシアのアパートに置いたままのハンドバッグは未だ回収できない。ホテルにこのまま戻ろうか、と一
瞬祥子は考えたが、ためらいを覚えた。こんな時間に戻ってくるなんて、ホテルのスタッフからどんな風に見られるだろうと考えたのだ。
いかがわしい女だと思われるかも知れない。それに昨日、祥子は全裸のまま逮捕、連行されるというとんでもない目に遭っている。警察からホテルになんらか
の照会や事情聴取が入っていると考えるのが自然だ。ホテルに戻るのは少しほとぼりが冷めるのを待った方が良さそうだ。
祥子は、寝室の啓治の机の上にいくつかの鍵が付けられたキーホルダーが無造作に置かれていることに気づいた。
(そうだ………)
今晩はホンダのオフィスに泊めさせてもらおう。啓治はたまにオフィスで夜明かしをするらしく、所長室の大きなソファで仮眠できるようになっているし、
シャワールームもあったはずだ。朝になれば香川やカルメンも出社するので今後のことを相談することもできるし、ガルシアとの連絡も取りやすい。
祥子は衣類の入った紙袋を手に持ち、家を出る。啓治が貸してくれた男女兼用のカジュアルな腕時計を見ると、すでに午前3時を過ぎていた。啓治の家はA国
首都の中心部からは車で15分程度の場所だが、閑静な住宅地でありタクシーの往来などももちろんない。
祥子が拝借したキーホルダーには、ホンダのオフィスの鍵と一緒に啓治の車のキーがついている。祥子はオフィスまでは啓治の車を拝借するつもりでいた。祥
子はガレージを開け車に乗り込み、エンジンをかける。
祥子は車をスタートさせた。少し運転するうちに最初は戸惑いのあったハンドルの位置の違いにも慣れてくる。真夜中のせいか道路に車がほとんど走っていな
いのも都合がよい。
運転に余裕が出てきた祥子は、啓治の身体に起こった変化について考えた。
祥子の就寝前まで何の異常もなかった啓治の顔つきが一変し、身体に獣を思わせる敏捷さが出現した。祥子は医者ではないが、先天的な病質でそのような症状
が生じるものは聞いたことがない。
何か薬物のようなものを投与されたのだろうか? 少なくとも祥子が見ている限りでは啓治は薬のようなものを飲むことはなかったが………。
(まさか、これがパトリシアのいっていた………)
鈴木化成の薬害事件の被害者、カリフォルニアで突然凶暴化し、パトリシアの従姉妹を喰い殺した精神病患者、そしてナチスドイツの収容所でクララ・シュ
ミットが悪魔的な実験の材料としていた囚人達………。
(ワルキューレ・プロジェクト? 啓治兄さんもひょっとして………)
その時祥子は、マイクロバスのような車が後方から急速に接近してくるのに気づいた。
車のウィンドウには偏光ガラスが使われているようで、外側から車内は見えない。不気味さを感じた祥子はスピードを上げて振り切ろうとするが、マイクロバ
スはいっそう速度を増し、祥子の車の隣にぴったりと並んだ。
(な、何なのっ)
祥子は今度はスピードを落としてマイクロバスをやり過ごそうとするが、バスは祥子の意図をあざ笑うかのようにすかさず速度をあわせている。
祥子は次第に焦燥に駆られてくるのを感じた。とにかく一刻も早く市街地に入ろうと祥子はアクセルを踏む。
マイクロバスはそれにあわせて再び加速する。チラとバスの方を向いた祥子は、そこに信じられないものを見て恐慌に陥った。
走行中のバスの片側の扉が開き、そこには獣とも人ともつかぬ毛むくじゃらの生き物が、黄色く光る目で祥子を睨み付けていたのである。先ほどの啓治の変身
ぶりとは比べものにならない禍々しさに、さすがの祥子も悲鳴を上げた。
「嫌あっ!」
その獣人は信じられないような跳躍力を見せ、祥子の車のボンネットにとりついた。祥子は振り落とそうと必死でハンドルを切り車を蛇行させるが、獣人はフ
ロントガラスにしっかりと肉体を張り付けるようにして離れない。祥子は獣人の肉体で視界を覆われ、急ブレーキを踏んで車を路肩につける。
「くっ………」
どうしても逃げ切れないようだ。祥子は悲壮な覚悟を決め、護身用に啓治の家から持ち出したアイアンを後部座席から取り出すと、車のドアを思いきり開いて
道路に駆け出す。マイクロバスは祥子の車のかなり前方で停止し、Uターンして戻ってくる。
「来なさいっ。化け物っ」
祥子は素早く迂回して車の前方に回り、ボンネットに乗ったままの獣人から十分に間合いを取ると、アイアンを青眼に構える。
獣人は目を輝かせ、歓喜のような雄叫びをあげるとボンネットから高々と跳躍し、祥子に襲いかかった。
祥子は飛びかかってくる獣人に向けてアイアンを一閃させる。涼子から借りた青いスーツのジャケットが獣人の爪で引き裂かれる。それでも確かな手応えを感
じ祥子が振り向くと、獣人はまったく変わらない表情で、再び祥子に襲いかかろうと身をかがめている。
(馬鹿なっ。確かに………)
化け物の肩口に一撃を食らわせたはず。感じていないのか?
よく見ると獣人の右腕がぶらんと垂れ下がっている。祥子のふるったアイアンは確実に獣人の肩に打撃を与えたに違いない。しかし、獣人はまったく苦痛を感
じている様子はないのだ。
(これが、ワルキューレ・プロジェクト………)
戦場で重傷を負っても苦痛も感じず戦い続ける殺人機械。ワグナーの楽劇に登場する戦いの美神の名を受けたナチスドイツの亡霊ともいうべきものが今、祥子
の目の前で現実となって現れたのだ。
獣人が再び祥子に襲いかかる。祥子は必死でアイアンをふるうが、今度は獣人はそれをくぐり抜け、逆に祥子の小手を左腕で一撃する。たった一つの武器であ
るアイアンが、祥子の手からもぎとられるように宙に舞う。
獣人は振り向きざまに祥子の頭を殴りつけて失神させると、力を失った祥子の体の上にのしかかる。牙をむいた獣人が祥子の喉笛を食いちぎろうとしたその
時、数発の拳銃の音が響き、獣人はもんどりうって倒れる。
マイクロバスから降りた男が、仰向けに倒れて痙攣している獣人に近寄り、額に弾丸を撃ち込みとどめを刺す。男は獣人を撃ち殺した拳銃をハンカチで丁寧に
拭うと、祥子の右手にしっかりと握らせた。
マイクロバスがいずこともなく走り去った後、息絶えた獣人がその変身前の姿であるホセ・ガルシアに戻った頃に、数台のパトカーが現場に到着した。
(第1部 完 続きは『耽美画報』会員サイトにてお楽しみください)
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